Low cost, Low price & High return

音楽に対してはまじめに、それ以外はゆるゆるとへんなことを。月に何度か、不定期に書き綴ります。

つよいトイレのはなし

 

あたまがわるいのだ。

 

なぜか、とかんがえてもしょうがない。わるいものはわるい。

この歳になって、いまさらよくもなりようがない。

脳細胞もどんどん消え始めていくお年頃だ。ざんねんではあるがしかたがない。

 

でも、あたまがわるくてよかったなぁ、とおもうことがある。

今日はちょっと、そういう子どものころの話をさせてください。

 

 

 

おれは大阪府生まれ。

小4で神奈川に引っ越してから、もうこちらの生活のほうがはるかに長いので、

関西弁のつかいかたもわすれてしまった。

心だけはいまでも関西人のつもりなのだが。阪神ファンだしな。

 

関西から関東にきていちばんおどろいたことは、ことばに対する意識のちがいだ。

たとえば、「アホ」は関西では

「もう、何やってんだぃ!しょうがないなぁまったく」というニュアンスで

おこられたとき、言われた側も「へへへ」で済む。場合によってはかなりおいしい。

逆に「バカ」ということばは

「おまえはどうしようもないクズだこのド低能」くらいの全否定のニュアンスである。

(Bちゃんによる体感調べ)

 

越してきてすぐ、担任の先生が他の生徒に

「なにやってんだ馬鹿!」と怒鳴ったことがあった。

そのときは「生徒を全否定するとはなにごとか。なんという野蛮な先生であることか。

おれは修羅の国に来てしまった……!!」

と心底後悔したものである。いまでは笑い話だが、当時は本気でそう思っていた。

 

もし関西人に「バカ」などと言おうものなら全面戦争まったなしである。

ぜったいに言ってはならない危険な言葉であると心得よ。

いいか、お兄さんとの約束だ。

 

さて、前書きがながい。いつもこうだ。よろしくない。本題に入ろう。

 

おれが大阪時代に通っていた小学校は、市内のなかでも

群を抜いてあほなやつらがそろっていたようにおもう。

うちのクラスときたらやばかった。

女子の8割が「あんなー、うちなー、大きくなったらトランクス様と結婚すんねん」

なんてことを言っていたくらいだった。

いま彼女たちはどんな大人になっているだろうか。会ってみたいようなこわいような。

 

男子も男子で、あほがそろっていた。

低学年だったこともあり、スクールカーストなどというものが存在しなかった。

もちろん、ひやかされたり、いじめられたこともあったが、

なぜかそのうちそのいじめたやつと仲良くなって一緒に遊んだりもしていた。

あほなので、みんな深くものごとをかんがえないのだ。行動はいつもその場その場だ。

 

男子の小便器で、障碍者のかたのためにパイプがついているやつがあっただろう。

だいたい、いちばん手前に1つだけあるやつだ。

わざわざあれを好んで使うひとは、

たぶんこれを読んでいるかたのなかにはいないだろうとおもう。

だが、おれたちのあいだではなぜだかあれが大人気だった。

 

戦隊ヒーローの追加戦士というのがいる。物語の途中から出てくる、6人目の戦士だ。

ユニフォームの上に、そいつひとりだけヨロイみたいなアーマーをつけている。

そしてつよい。かっこいいのだ。

たとえばウルトラマンでも、ふつうのウルトラマンよりも、

ツノがついたウルトラセブンウルトラマンタロウのほうがつよい。

パンチりょくも、飛ぶはやさも、何倍もすごいとヒーローずかんに書いてあったのだ。

子どもたちのなかでは、つよいはもちろん、かっこいいと同義である。

 

おれたちのなかでは、あのパイプがついたトイレはつよいトイレだった。

だってそうだろう。ひとつだけ頑丈そうなパイプに守られている。ヨロイのようだ。

あいつは「とくべつなやつ」だ。つよいにちがいない。つよいトイレはかっこいい。

休み時間でトイレに行くたび、みんなこぞってあの「パイプつき」に並ぶのだ。

早く用を足したいやつがしかたなく、ふつうのトイレにならぶ。

くそう、次こそはあのつよいトイレを使ってやる……そんな目をしながら。

 

小学生のなかでは、勉強ができるよりも、足が速いやつのほうがえらい。

 

あの「つよいトイレでいちばん最初に用が足せるやつ」は、

おれたちのなかではステータスだった。

教室から駆け出し、あのつよいトイレに誰よりも先に並ぶのだ。

それはそれは毎時間熾烈な競争だった。

ギリギリで出し抜かれてくやしがるやつがいた。

最短距離でトイレのドアのインコースからまくろうとくわだてたやつがいた。

いまかんがえてもあほすぎる。いったいなにをやっていたんだ。

 

障碍者への配慮、などと言うものとは無縁の世界におれたちはいたのだ。

そんなものはくだらないおとなのかんがえたものにすぎない。

ただただ、あのつよいトイレはおれたちのあこがれであり続けたのだ。

 

 

 

神奈川に転校して最初の休憩時間、おれはダッシュでトイレに向かった。

もちろん、目当てはあのつよいやつだ。

みんなゆっくり歩いていやがる。なんだ、みんなたいしたことねぇな。

関東ってやつはぬるいところだ。

自信満々で用を足すおれを横目に、あとからやってきたクラスメイトはこう言った。

「あっ、シンショーだ。」

 

そしておれは、つよいトイレに並ぶことをしなくなった。

 

 

 

ものの価値、というものは見かたによってぜんぜんちがうのだ。

あのころのおれたちはただただあほだった。

だからこそ、大人の想定とはまったくちがう、おれたちだけの価値観を生み出した。

あのあほなクラスにいたからこそ、知ることのできたものだったと、今はおもう。

ほんとうに、あほでよかった。

 

 

 

駅や公共施設のトイレに行く。生活をしていればそういう機会もある。

アラサー。もういい大人だ。わざわざ障碍者用の便器になど並ぶわけがない。

あれの理由も、必要性も、とっくのとうに理解している。

社会性というものを身につけてしまったのだ。

でも―

気がつくと、ついあの「つよいやつ」に視線を向けてしまう自分がいる。

 

そうなんだよ。

あの小さくて楽しかった日々と変わらず、おれはいまでもずっと、あほのままだぜ。